『科学哲学の冒険』についてのまとめ(2)
科学の方法
科学にはどのような特徴があるだろうか。それは科学の営みと我々の視線から輪郭が浮き彫りになる。
そこで、筆者は以下の2つを科学の特徴として取り上げている。
1. 科学は新しく、正しいことを言っているようにみえる。
2. 科学的理論は、決して経験から離別することはないようにみえる。
科学哲学は以上の2つに「なぜか?」という疑問符をつける。
帰納と演繹
前述のように、筆者は科学哲学における問題を2つ例示した。これらの問いについて考えるときに、科学哲学者は推論のやり方に注目する。それは演繹と帰納である。
演繹
1. モードゥス・ポネンス
AはB
A
ゆえにB
2. モードゥス・トレンス
AならばB
Bでない
ゆえにAではない
帰納的推論は、いくつか存在しておりここでは3つについて説明する。
1. 枚挙的帰納法(enumerative induction)
a1はPである。
a2はPである。
a3はPである。
・
・
・
------------
(きっと)すべてのAはPである。
2. アブダクション(abduction)--最良の説明への推論
Aである。
Hと仮定すると「なぜAなのか」を説明できる。
------------------------------------
(きっと)Hである。
3. アナロジー(analogy)
aはPである。
aはbと似ている
-------------------
(きっと)bもPである
以上のような帰納と推論を用いて、科学的説明はなされる。
仮説演繹とは
19世紀には「仮説演繹法(hypothetico-deductive method)」と呼ばれる科学方法論によって、科学的説明がなされていた。仮説演繹法は以下のようになされる。
前提 あることについて、いくつかのデータを持っている。
1. データを説明してくれそうな仮説、あるいはデータから一般化できそうな仮説を提示する。
2. 仮説から予言を導く。
3. その予言を、実験や観察で検証する。
4. 予言が当たったら、仮説が正しいということになる。
このメソッドによって仮説が検証された(verified)、もしくは確証された(confirmed)と言われる。
5. 予言がはずれたら、仮説が間違いだったということになる。
このとき仮説は反証された(falsified)という。
以上のように仮説演繹法はなされる。1.で表現されているように、この方法論では帰納法的に仮説を立論することで、科学的説明を行うのだ。
ここで問題がある。それは帰納法に関する問題である。演繹では、性質として「真理保存的」だが、帰納法にはそれがない。つまり、帰納法は信用できるのかということなのだ。帰納法を批判した人物を次の章ではとりあげる。
ヒュームの懐疑論
いままで見てきたように、科学的営みには演繹と帰納があると説明したが、帰納的推論について懐疑を突きつけた人物がいる。デイヴィッド・ヒュームである。
批判の内容は以下のようになる。
1. 帰納的推論を論理的に正当化できない。帰納は真理保存的でないから→これまでAであっても、これからAである保証はない。
2. 帰納を経験的に正当化することもできない。帰納法を「帰納はこれまでうまくいってきても、これからもうまくいくだろう」という(帰納的)推論で正当化することはできない。議論が循環してしまうのだ。
3. 帰納を「斉一性の原理」=「なんらかの秩序が存在し、同じ条件では、同じ結果がでる」によって正当化することもできない。斉一性の原理も帰納的推論だからである。
ポパーによる議論
前の章では、ポパーの帰納に対する懐疑について説明した。この懐疑を受けてカール・ポパーは、「帰納の正当化の不可能性」はヒュームによって決定的になったと考えた。
そのため、彼は、「帰納を取り除き、演繹だけで科学の営みを説明」しようとした。彼によると、科学の目的は「仮説を立ててそれを反証すること」である。仮説が反証されるとき、モードゥス・トレンスと呼ばれる演繹的推論が行われるのである。このような「科学の営みが、仮説を反証することである」とする立場のことを反証主義という。
ポパーによると、科学は次のように進んで行く。
1. 科学者は、世界がどうなっているかについて「推測(conjucture)」を仮説として立てる。
2. 仮説から実験や観察によるテストが可能な予言を引き出す。
3. 実験により予言がはずれたことが分かって、仮説が反証されるとそれは棄却される。
これは反駁(refutation)である。
4. 科学者は、このように仮説を反証する作業を続けている。以上の作業をポパーは「推測と反駁」と呼んだ。
5. 反証に失敗し続けると仮説は生き延びる。これにより仮説は強められた(corroborated)仮説とよぶ。
ポパーの問題点
以上のようなポパーの反証主義は、演繹的推論のみによって科学の営みを説明するものだった。しかし、科学の重要な要素としての予測が効果をもたなくなってしまうのが、この反証主義の批判される点である。つまり、仮説が反証によって強められたとしても、それが予測の正当性が担保されるかは別の問題だからである。
線引き問題
ポパーの問題点は、「予測の効果について強められた仮説は正当性を担保できない。」という点にあるが、これでは、科学的理論によって確かめられた仮説による予測と、そうではない(錬金術のような理論)の区別ができない。つまり、科学に装った疑似科学と呼ばれる仮説が蔓延る可能性を示している。そこで彼は、この欠点を解決するために「反証可能性」という概念を導入する。「いかなる結果がでれば仮説や理論が間違いであるかをきちん定める」ことこそが、科学の「科学である根拠」なのだと彼は言うのだ。
そもそも法則とはなにか
付録
理論と観察文
科学にはどのような特徴があるだろうか。それは科学の営みと我々の視線から輪郭が浮き彫りになる。
そこで、筆者は以下の2つを科学の特徴として取り上げている。
1. 科学は新しく、正しいことを言っているようにみえる。
2. 科学的理論は、決して経験から離別することはないようにみえる。
科学哲学は以上の2つに「なぜか?」という疑問符をつける。
帰納と演繹
前述のように、筆者は科学哲学における問題を2つ例示した。これらの問いについて考えるときに、科学哲学者は推論のやり方に注目する。それは演繹と帰納である。
演繹
1. モードゥス・ポネンス
AはB
A
ゆえにB
2. モードゥス・トレンス
AならばB
Bでない
ゆえにAではない
帰納的推論は、いくつか存在しておりここでは3つについて説明する。
1. 枚挙的帰納法(enumerative induction)
a1はPである。
a2はPである。
a3はPである。
・
・
・
------------
(きっと)すべてのAはPである。
2. アブダクション(abduction)--最良の説明への推論
Aである。
Hと仮定すると「なぜAなのか」を説明できる。
------------------------------------
(きっと)Hである。
3. アナロジー(analogy)
aはPである。
aはbと似ている
-------------------
(きっと)bもPである
以上のような帰納と推論を用いて、科学的説明はなされる。
仮説演繹とは
19世紀には「仮説演繹法(hypothetico-deductive method)」と呼ばれる科学方法論によって、科学的説明がなされていた。仮説演繹法は以下のようになされる。
前提 あることについて、いくつかのデータを持っている。
1. データを説明してくれそうな仮説、あるいはデータから一般化できそうな仮説を提示する。
2. 仮説から予言を導く。
3. その予言を、実験や観察で検証する。
4. 予言が当たったら、仮説が正しいということになる。
このメソッドによって仮説が検証された(verified)、もしくは確証された(confirmed)と言われる。
5. 予言がはずれたら、仮説が間違いだったということになる。
このとき仮説は反証された(falsified)という。
以上のように仮説演繹法はなされる。1.で表現されているように、この方法論では帰納法的に仮説を立論することで、科学的説明を行うのだ。
ここで問題がある。それは帰納法に関する問題である。演繹では、性質として「真理保存的」だが、帰納法にはそれがない。つまり、帰納法は信用できるのかということなのだ。帰納法を批判した人物を次の章ではとりあげる。
ヒュームの懐疑論
いままで見てきたように、科学的営みには演繹と帰納があると説明したが、帰納的推論について懐疑を突きつけた人物がいる。デイヴィッド・ヒュームである。
批判の内容は以下のようになる。
1. 帰納的推論を論理的に正当化できない。帰納は真理保存的でないから→これまでAであっても、これからAである保証はない。
2. 帰納を経験的に正当化することもできない。帰納法を「帰納はこれまでうまくいってきても、これからもうまくいくだろう」という(帰納的)推論で正当化することはできない。議論が循環してしまうのだ。
3. 帰納を「斉一性の原理」=「なんらかの秩序が存在し、同じ条件では、同じ結果がでる」によって正当化することもできない。斉一性の原理も帰納的推論だからである。
ポパーによる議論
前の章では、ポパーの帰納に対する懐疑について説明した。この懐疑を受けてカール・ポパーは、「帰納の正当化の不可能性」はヒュームによって決定的になったと考えた。
そのため、彼は、「帰納を取り除き、演繹だけで科学の営みを説明」しようとした。彼によると、科学の目的は「仮説を立ててそれを反証すること」である。仮説が反証されるとき、モードゥス・トレンスと呼ばれる演繹的推論が行われるのである。このような「科学の営みが、仮説を反証することである」とする立場のことを反証主義という。
ポパーによると、科学は次のように進んで行く。
1. 科学者は、世界がどうなっているかについて「推測(conjucture)」を仮説として立てる。
2. 仮説から実験や観察によるテストが可能な予言を引き出す。
3. 実験により予言がはずれたことが分かって、仮説が反証されるとそれは棄却される。
これは反駁(refutation)である。
4. 科学者は、このように仮説を反証する作業を続けている。以上の作業をポパーは「推測と反駁」と呼んだ。
5. 反証に失敗し続けると仮説は生き延びる。これにより仮説は強められた(corroborated)仮説とよぶ。
ポパーの問題点
以上のようなポパーの反証主義は、演繹的推論のみによって科学の営みを説明するものだった。しかし、科学の重要な要素としての予測が効果をもたなくなってしまうのが、この反証主義の批判される点である。つまり、仮説が反証によって強められたとしても、それが予測の正当性が担保されるかは別の問題だからである。
線引き問題
ポパーの問題点は、「予測の効果について強められた仮説は正当性を担保できない。」という点にあるが、これでは、科学的理論によって確かめられた仮説による予測と、そうではない(錬金術のような理論)の区別ができない。つまり、科学に装った疑似科学と呼ばれる仮説が蔓延る可能性を示している。そこで彼は、この欠点を解決するために「反証可能性」という概念を導入する。「いかなる結果がでれば仮説や理論が間違いであるかをきちん定める」ことこそが、科学の「科学である根拠」なのだと彼は言うのだ。
そもそも法則とはなにか
付録
理論と観察文
『科学哲学の冒険』についてのまとめ(1)
最初に
この本は、筆者が「科学的実在論」と呼ばれる立場を擁護するのを通して
読者に科学哲学に関する理解を深めさせる書だ。ちなみに科学的実在論とは「科学的モデルで想定される原子や分子といった存在は実際に視認できないが、モデルにのままに実在している。」という立場である。
科学哲学はなにをしているか?
昔から、科学と哲学は連動してきた。例えば、それは近代認識論の原点と言われて久しいデカルト、物理学、数学、論理学等々に広く貢献したライプニッツ。彼らは、哲学的な議論とともに科学的な議論も深めていて、さらにその二つの分野の関連性は明らかである。その意味で、哲学と科学の二つの領域を越境する部分について考える科学哲学は正当性を持つと言える。
しかし現代においては、哲学と呼ばれる分野を超えて科学はその領域を広くもつようになってきた。例えば、科学に対して国は大規模な資金援助を行うが、哲学にはほとんど資金援助をすることはない。これは有効性において、哲学よりも科学がより多くの成果を上げてきたとも言える。
また、筆者は、科学哲学の第一目標を「科学をまるごと理解することである」としている。
これは、旧来考えられてきたような『哲学によって科学を基礎づける』ものではなく、よくわからない科学の営みを理解することである。そこには哲学者だけでなく、科学者の営みが重要になってくる。なぜなら、科学者というのは、自然に関する省察を深めながら、「科学とはなにか?」という科学哲学的問題を取り扱ってきたからだ。その意味で、科学者は科学哲学的領域に近づくのだ。
しかし、そうであるならば、科学哲学者は必要なのだろうか。
筆者はそれを二つに纏めている。
1. 科学についての様々な考察を検証し、蓄積させていくためのフォーラムを提供する。
2. 科学について語るための多くの概念(質量、仕事といった用語など)の分析を行う。
これらが、「特別に」科学哲学が必要な理由であり、その仕事なのである。
この本の二つの立場
科学の探究の立場は二つ挙げられている。それは、「第一哲学」(first philosophy)と「自然主義」(naturalism)である。
第一哲学とは、哲学独自の方法で科学の方法論を整備する立場である。この立場は「私たちが、世界について何を信じるべきか」と「われわれが現にどのように信じるようになっているか」ということについて独立して考えることができるとするものだ。(前者は「我々の世界の真理とは?」、後者は「われわれは世界をどのように認識しているのか?」という言葉に換言できると思われる。)
また、「自然主義」と言われる立場は、第一哲学における哲学的基礎づけなしに科学が成立するものである。自然主義者にとっては、科学哲学者の仕事は科学の基礎づけを意味しない。そうではなく、科学の自己理解を深めることが、科学哲学の目的であるとする立場である。これは、前述した科学哲学の必要な二つの理由とも重なり合う。(自然主義者にとっては、科学的営みそのものが哲学的営みに関わると言える。)
科学哲学的立場
前述した立場=科学的実在論には、概ね二つのことを主張するとされる。それは、「科学とは別に、目に見えないものが実在する」、「科学はその独立してある世界の本性を詳述している」ということだ。
しかし、これには以下のような反論が考えられる。それは「目に見えないものの実在をどうして信じられるのか?」というものだ。こういった意見から構成されていく立場が、「科学も単なる信念の体系でしかなく、それは宗教や魔術と似たようなものだ」とする相対主義(relativism)や、「科学的実在と呼ばれるものは、科学者たちの民主主義的な合意形成よるものだ」とする社会構成主義(social constructivism)と言われているものだ。
本書では、このような立場について反論しながら自然主義的な立場と科学的実在論を擁護していく。
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この本は、筆者が「科学的実在論」と呼ばれる立場を擁護するのを通して
読者に科学哲学に関する理解を深めさせる書だ。ちなみに科学的実在論とは「科学的モデルで想定される原子や分子といった存在は実際に視認できないが、モデルにのままに実在している。」という立場である。
科学哲学はなにをしているか?
昔から、科学と哲学は連動してきた。例えば、それは近代認識論の原点と言われて久しいデカルト、物理学、数学、論理学等々に広く貢献したライプニッツ。彼らは、哲学的な議論とともに科学的な議論も深めていて、さらにその二つの分野の関連性は明らかである。その意味で、哲学と科学の二つの領域を越境する部分について考える科学哲学は正当性を持つと言える。
しかし現代においては、哲学と呼ばれる分野を超えて科学はその領域を広くもつようになってきた。例えば、科学に対して国は大規模な資金援助を行うが、哲学にはほとんど資金援助をすることはない。これは有効性において、哲学よりも科学がより多くの成果を上げてきたとも言える。
また、筆者は、科学哲学の第一目標を「科学をまるごと理解することである」としている。
これは、旧来考えられてきたような『哲学によって科学を基礎づける』ものではなく、よくわからない科学の営みを理解することである。そこには哲学者だけでなく、科学者の営みが重要になってくる。なぜなら、科学者というのは、自然に関する省察を深めながら、「科学とはなにか?」という科学哲学的問題を取り扱ってきたからだ。その意味で、科学者は科学哲学的領域に近づくのだ。
しかし、そうであるならば、科学哲学者は必要なのだろうか。
筆者はそれを二つに纏めている。
1. 科学についての様々な考察を検証し、蓄積させていくためのフォーラムを提供する。
2. 科学について語るための多くの概念(質量、仕事といった用語など)の分析を行う。
これらが、「特別に」科学哲学が必要な理由であり、その仕事なのである。
この本の二つの立場
科学の探究の立場は二つ挙げられている。それは、「第一哲学」(first philosophy)と「自然主義」(naturalism)である。
第一哲学とは、哲学独自の方法で科学の方法論を整備する立場である。この立場は「私たちが、世界について何を信じるべきか」と「われわれが現にどのように信じるようになっているか」ということについて独立して考えることができるとするものだ。(前者は「我々の世界の真理とは?」、後者は「われわれは世界をどのように認識しているのか?」という言葉に換言できると思われる。)
また、「自然主義」と言われる立場は、第一哲学における哲学的基礎づけなしに科学が成立するものである。自然主義者にとっては、科学哲学者の仕事は科学の基礎づけを意味しない。そうではなく、科学の自己理解を深めることが、科学哲学の目的であるとする立場である。これは、前述した科学哲学の必要な二つの理由とも重なり合う。(自然主義者にとっては、科学的営みそのものが哲学的営みに関わると言える。)
科学哲学的立場
前述した立場=科学的実在論には、概ね二つのことを主張するとされる。それは、「科学とは別に、目に見えないものが実在する」、「科学はその独立してある世界の本性を詳述している」ということだ。
しかし、これには以下のような反論が考えられる。それは「目に見えないものの実在をどうして信じられるのか?」というものだ。こういった意見から構成されていく立場が、「科学も単なる信念の体系でしかなく、それは宗教や魔術と似たようなものだ」とする相対主義(relativism)や、「科学的実在と呼ばれるものは、科学者たちの民主主義的な合意形成よるものだ」とする社会構成主義(social constructivism)と言われているものだ。
本書では、このような立場について反論しながら自然主義的な立場と科学的実在論を擁護していく。




